新城 富永神社能舞台

愛知県新城市(しんしろし)には富永神社所有の能舞台があります。
新城市本町にお住まいの方々を中心に新城能楽社を結成し、毎年10月の第二金曜日を祭礼能として、長い伝統を引き継ぐ演能奉納をしてこられました。
私は月に一度稽古に伺っていますが、写真のように舞台が拝見できるのは、祭礼能の季節だけですので、今回の写真撮影と共に新城と粟谷家の繋がりをご紹介したいと思います。

<新城能楽社と粟谷家>
新城能楽社と粟谷家の繋がりは、祖父益二郎が当地に稽古に伺ったことから始まり、新太郎が引き継ぐ形となりました。その後は職分、長田 驍氏が指導にあたり、地元能楽社の方々の御研鑽のお力もあって、奉納能が長く伝承されて参りました。平成元年には、後継者育成の問題もあり、能楽社より祭礼能、及び新城薪能の指導をと再度新太郎に依頼があったため、新太郎の指示により、私、粟谷明生が伺うこととなりました。それ以来、月一度の稽古が始まり今日に至っています。
この舞台を拝見すると、私が子供の時(昭和45年7月14日:15歳)に行われた、奉納能を思い出します。
番組は 能、『三輪』(二段神楽)粟谷新太郎、『葵上』粟谷菊生、 舞囃子 『小袖曽我』 粟谷能夫 粟谷明生 でした。
私は、名古屋で主流の藤田流の笛で初めて男舞を舞ったのですが、初段オロシの拍子を踏むところが判りにくく、能夫と二人で踏みはずした苦い経験が思い出されます。
当時楽屋の裏に何故か鶏が沢山いまして、謡っていると「コケコッコー」と鳴くので「やかましい、邪魔するな」と謡ながら腹を立てていたことも思い出しました。今回久しぶりに参りまして、舞台裏に渡り廊下が出来、舞台も建物自体も修理され良くなって感心させられましたが、なにより驚いたのは、私を悩ましたあの鶏たちの多分子孫だろうと思われる何羽かに会えたことで、まったく懐かしく思いました。

JR豊橋駅より、飯田線に乗り30分ほどで、新城駅に着きます。駅舎に立ちますと、まず目に付くのが、天井高く飾られている「長篠合戦陣構え」の図です。
毎回、これを見ては、「新城に来たな」と思うほど、私には印象に残る図です。
富永神社能舞台の鏡松
日頃は引き戸で隠され中が見られませんが、祭礼の前後はこのように開放されます。
意外と長い橋掛り

二の松あたりより正面を望む
脇座より脇正面の桜の木を見る
能舞台全景
立派な能舞台屋根
後見座より正面を見る
脇正面より
今回の撮影にご参加頂いた、新城能楽社の方々