頼政の男気

粟谷能の会福岡公演(平成15年9月20日)『頼政』では、父の体調を配慮して、私が後シテを代演しました。
『頼政』は粟谷能の会(平成9年)の初演以来、能楽座静岡楕円堂公演(平成12年)でも急遽、父の代演をし、今回またと、何か因縁を感じます。頼政像が父の姿と重なるようで感慨深いものもあり、私なりに思うところを後半に重点をおいてまとめてみました。

『頼政』の後場は平家物語に基づいて作られています。治承四年の夏の頃、頼政は以仁王にご謀反を勧め、三井寺(園城寺)の援軍を頼みにしますが、平家方の知るところとなり、敢え無く、宇治平等院に御座を敷き平家を向かい討ちます。宇治川の橋合戦の様を語る床几に掛けての仕方話は、老将である頼政と、平家方の若武者、田原又太郎忠綱の二者を演じ分けるところに演者の力量が出て面白いところだと思います。特に忠綱の指揮による三百余騎が川を渡り攻め入る様子は、能『頼政』ならではの面白さ、見どころです。

床几での型には、それぞれ口伝が秘められていて充分な稽古が必要ですが、ともすると型の模写に留まってしまい、頼政という、老体であり法体そして軍体であるという、複雑な捻くれた人間像を見失う傾向があるので、演者はここを注意しなくてはいけないと思います。しかし言うは易く行うは難しで、私も完璧にはできません。

頼政は七十六歳(七十七歳とも)の老体ですが、目に金環がある専用面「頼政」を使用します。いかにも老武者らしくと三光尉をかけて「老い」を前面に出す『実盛』とは異なります。頼政の面には、老いて猶強い現世への執着、人間離れしながらも、何か生臭い執念のようなものを感じます。

修羅物を演じるとき、役者は命を懸けて戦っている様や、その戦慄を舞台に表現できなくてはいけないといわれます。『頼政』に触れるたびにこの言葉が思い出され、同時にシテを勤める時だけではなく、地謡を謡うときも、それが芸能の課題であると感じます。

能『頼政』を勤めるに当たり、源三位頼政という老武者がなぜ挙兵に及んだのか、どのような執心があったのかを、もう一度繙いてみることにしました。このことは、前回の静岡公演『頼政』でも書きましたので、参照していただきたいと思います(演能レポート「『頼政』の鬱屈と爆発」)。今回は、頼政と以仁王を結ぶ意外な人物がいたことを知り、興味深く感じましたので、簡単にふれてみたいと思います。

私は、平家物語の一段「月見」を能形式の作品にしたことがあります。月見の段は藤原(徳大寺)実定が福原に新都なるとき、旧都の月を恋い慕って、京のさわ子(太皇太后多子とも言う。近衛帝と二条帝の二代の妃となった実定の妹、また姉ともいわれている)宅を訪ね、月見をし、歌を詠み、互いに昔を偲ぶという短い話です。実は、この人々が頼政に関係があり、以仁王にもつながっているのです。

後白河法皇の第三子、以仁王は親王ではなく王という称号です。これは安徳帝を推す平家方による圧力があったのか…、高倉帝と徳子の間に安徳帝が生まれると、以仁王の帝位継承の目は完全に無くなりました。以仁王は父後白河法皇の指示か、また平家方に疎んじられていたためか、親王の号は最後まで許されず、元服も人目に着かぬ秘密の内に行わなければならなかった経緯があります。そしてその場所に選ばれたのが、さわ子宅でした。その後それが原因でさわ子は出家することとなりますが、そのさわ子宅の隣に屋敷を構えていたのが源頼政でした。さわ子の小侍従と頼政が歌を交していた事実もあり、遂には屋敷を交換したほどの関係であったようです。

平家方の横暴が激しくなるにつれ、荘園さえも没収された以仁王、安徳帝が帝位につくことになると、もはや武力行使しかないと思っていた矢先、頼政は以仁王に平家追討の令旨を出させ決断をさせます。以仁王の苦渋を見守ってきた誼も一つの要因であったかもしれません。一方、嫡男・仲綱は伊豆守を任命され着任していますが、当時、伊豆には流人頼朝がいます。そこで接触があったことは紛れもないことで、それらの報告は逐一、父頼政の耳に入っていたことでしょう。

以仁王との関係、宗盛の頼政一門への嫌がらせ、そして子息仲綱兄弟の決起催促、そこに、仲綱と宗盛の愛馬争いが事件の発端となり、旗揚げの口火となったことは確かで、今まで我慢に我慢を重ねてきた老将の感情を一気に挙兵へと爆発させたのだろうと思います。七十六、七歳、死に場所を失っていた頼政という老武者に、平家を裏切るという、これほどの決起をさせたのは、これら複数の原因はもとより、最後の一花咲かそうという男気があったからではないでしょうか。

能『頼政』では、「木の下=このした」という愛馬に絡む話を中心に、頼政の決起のいきさつをアイが語ります。私はこのアイ語が好きで、後シテではこの語られたものを背負って登場しているつもりです。そして宇治川の橋合戦の仕方話へと繋がり、最後「兄弟の者も討たければ…」と息子達もすでに討ち死にしたと知るや、ここで敗戦を認め自害を決意します。子どもがいない戦はもう意味をなさなかったかもしれません。私は頼政の親としての心情を思い演じています。

『頼政』に関連した能に『鵺』があります。宮中を騒がす化生の物、鵺は頭は猿、尾は蛇、足手は虎の如くと謡にあるように、奇妙な化け物です。ここで頼政は宮中の弓の名手の警護武将として登場し、家来の猪早太(いのはやた)と二人で鵺退治をし名声をあげます。やはり頼政は宮中が似合っていたのではないでしょうか。宮中警備係筆頭であればよかったものを、似合わぬ場所に首を出したため、鵺のように退治されてしまいます。昔、観世銕之亟静雪先生に「頼政自体が鵺みたいに生きてきたんだよ、だからそこに繋がるものがあるんだ」と伺ったことを思い出します。『実盛』に「深山木の其の梢とは見えざりし、桜は花に現れたる」と頼政の歌がありますが、一花咲かす男気があったからこそ、歌人頼政の名声が今にあるのかもしれません。

今回、半能ではありますが、『頼政』を演じることで、この課題を作品にした世阿弥の老いての苦悩、苦労人世阿弥という人がひしひしと感じられるのです。次回の粟谷能の会ではこの『鵺』を演じます。頼政に因縁を感じつつ、『鵺』の中で、頼政像をもう一度見つめてみたいと思います。
                           
(平成15年9月 記)

写真 
面 頼政    粟谷家蔵  撮影 粟谷明生
能 頼政 シテ 粟谷明生  撮影 堤 恒子 

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