『殺生石』「女体」にカケリを入れる


 平成十四年、春の粟谷能の会(三月三日)で『殺生石』を小書「女体」で勤めました。この小書はもともと金剛流のもので、先代宗家喜多実先生が宗家就任記念として先代金剛巌氏よりお祝いとしていただき、その御礼として喜多流の『富士太鼓』「狂乱の楽」をお渡ししたいきさつがあります。以後この小書を両流で共有することになりました。
「女体」導入初期は、扮装のみ女の姿で、型は従来ある白頭の型にとどまる演出でしたが、平成九年に友枝昭世師が、前場の曲(クセ)を居グセから舞事にし、後場も激しく動き回りながらも艶やかな演技に創作して、新形式で演じられました。あの舞台は従来の、殺生石に封じ込められた狐の執心にとどまらず、美しい玉藻前の妖艶な肢体の内に激しく燃える怨念を見る思いがして、地謡を謡ながらも感動しました。この曲に込められている真意を新たに表現する可能性がある、いつか自分も「女体」で演じてみたいと、演能意欲が高まりました。
『殺生石』の舞台は那須野が原。そこに置かれている大きな石。その石は、人も鳥類畜類も近くに寄るものすべてを殺してしまう殺生石。それは昔、玉藻前が王法を滅ぼそうと鳥羽院の宮中に入り、帝を病にさせるが、安倍泰成の占いによって、玉藻前の仕業と明かされ、妖狐の正体を現して那須野の原に逃げ去る、しかし勅命による三浦介と上総介に射殺されてしまい、死後も執心とどまらず、殺生石となって害を及ぼしているというものです。
この殺生石に込められた魂はいかなるものか。後場で石を割り現れた後シテは、「野干(やかん・狐の意)の形はありながら、さも不思議な人体なり」と言われるように、正体は狐ですが、天竺(インド)にあっては斑足太子の塚の神、大唐では幽王の后、わが朝(日本)にては鳥羽院の玉藻前と転生してきたことをうかがわせる不思議な姿で、その魂は妖狐であり、魔性の女であり、石という生命体の石魂でもあるというものです。そこには幾重にも重ねられた暗く深くおそろしい闇の世界がうごめいている。そのような意識が「女体」に取り組む一つの基盤になり、演出にも、面や装束選びにも反映したと思います。

面は前シテが通常「増女」、玉藻前の容顔美麗に似合う美しい面ということで決まりとされています。しかし今回は、「石に近寄るな」と強い口調で言い放つほどの女ですから、それに似合う力強い執心が溢れ、異様な雰囲気が漂う面はないかと思い、岩崎久人氏打ちの創作面「玉藻其の四」を使わせていただきました。恐ろしい目、人相もきつく、髪をもふり乱しての特異な表情です。これは後シテ用に打たれたものでしすが、敢えて前シテでと試みてみました。
後シテは通常「小飛出」が決まりで、小書「白頭」では「野干」となりますが、いずれも鬼畜系です。小書「女体」ではそれら鬼畜系を除外します。今回私は、女という枠の人面ではあるが、女狐にも見え、またこの世にはない怪奇な力を持つような異次元の形相に思いを巡らせて、やはり岩崎氏の金泥「玉藻其の二」をかけることにしました。
装束は、「女体」の特徴である緋長袴を軸に、黒垂、舞衣のところを、近年流行の白頭に、私の考案で狩衣を衣紋に着けてみました。後で述べる「カケリ」の演出を意識したものです。
演出は、全体としては鮮烈な印象を受けた友枝師の型付を踏襲し、そこに後半、観世流で導入され始めた「カケリ」を入れて自分なりの創作を試みました。

前場の曲(クセ)では、友枝師が金剛流の型をもとに創作された通り、私も居グセではなく舞うことにしました。光を放って清涼殿を照らす玉藻の前の姿や、御幣を持ち占う安倍泰成など、当て振りな型を多く取り入れた舞です。ここは「その石に近寄るな」と制止する強い女、後シテの殺生石の魂につながるような強さを、舞という動きで表現したいところです。居グセよりはわかりやすくご覧いただけたのではないでしょうか。
石の作り物が割れて後シテが登場する場面は、他流には石の作り物を出さない演出もあるようですが、喜多流はほとんど作り物を使用し、玉藻前の霊(あるいは石魂)の念力で割れるイメージで、後見が両側から引いて割ります。今回は二つの石の間を少し開けて、玉藻前の姿を一瞬見せ、すかさずシテ自身で石を払って出る演出としてみました。このやり方には賛否両論あるでしょうが、シテの押し出す力があって割れるというのも一つの方法で、玉藻前の霊の強さが出るのではないかという思いでいたしました。

そして後半の「カケリ」を入れる演出、これは私の創作で行いました。カケリは修羅道の苦しみや物狂いの心を現す所作で緩急の激しいものですが、『烏頭』のように猟師が鳥を捕る場面にも用いられます。今回の「女体」では具体的には「草を分かって狩りけるに」の後、橋掛りを往復する所作を入れます。三の松に行くときは、玉藻前を追いかける二人の武士、三浦介と上総介の姿を、三の松から一の松に戻るときは、逃げ惑う玉藻前の様子をカケリで表現します。追う側と追われる側をひとつのカケリの中で同時に表現できないだろうか、難しい一つの実験でもありました。後シテの装束を緋長袴に狩衣としたのもその両方の姿を見せる狙いでした。追う両介が狩装束で馬にまたがり弓を引き、追われる玉藻前は、王朝に忍び込んでいた姿で、最後は、“玉藻前ここにあり”と果敢に挑み正体を現す型で留めるというものです。
しかしそのいさましさも空しく、玉藻前は統治者という力を誇る体制側の武士にあえなく射殺され、征服されてしまいます。『殺生石』ではこの玉藻前の死後の執心や恨み、女の情念をいかに表現するかではと思うのです。
殺生石に幾重にも込められた魂、玉藻前の執心、『殺生石』の闇の世界。それを演ずる舞台空間には、異様な空気が流れ、ただならぬ不気味な雰囲気が満ちてくるようでなければなりません。後の出端で、シテが「石に精あり。水に音あり、風は大虚に渡る」と謡う場面、太鼓の観世元伯氏に「とてつもなく変な臭いがして、異様な生ぬるい風が吹き起こるようなイメージの音色、掛け声で打てないだろうか」と話したところ、「それは難しいよ、できないよ」と即答されましたが、本番彼は何となく私の意を汲んで下さったのか、それは今までに体験したことのない、何か重苦しい出端であったように私には思え満足しています。

囃子方は他に大鼓は亀井広忠氏、小鼓の鵜澤洋太郎氏、そして笛は重鎮の一噌仙幸氏で、舞台の緊張感を盛り上げてくださいました。広忠氏は先代観世銕之亟静雪先生考案のカケリを最初に手がけており、若手ながら経験豊富。彼に相談して、追う側と追われる側の二段構成ながら、その段落を単に掛声とともに鮮明に区別するのではなく、舞台上での役者と囃子方が共有する独自の意思を基盤に、ある特殊の間で世界が切り替わるような狙いで練り直してもらいたいとお願いいたしました。手組の寸法にこだわらず、演じ手と囃子手の呼吸の見計らいで表現してみようということでした。舞台上では強い意気と緊張感が感じられ、舞いやすかったのですが、テーマにした追う、追われる様が表現できたか、今後の課題でもあるように感じました。

今回後場で予想外の事態が生じました。一畳台の前で、緋長袴を後ろに蹴り上げ、右足を台に乗せ膝をつく型で、膝が台から少し外れてしまいました。あのような事が起きた原因は何であったか。
今回、カケリを創作するにあたり、見ごたえあるものにするにはどうしたらよいかを考え、喜多流には本来無い、欄干に足をかける危険な動きなど稽古の過程で念入りに創りあげました。ところが、事の起きた場面はすでにある型を鵜呑みにして演じたところでした。創作者とは、何度も試み、危険箇所を入念にチェックし、動きを体にしみ込ませていくものです。それを、型だけをまねたレベルでの動きにとどめていた自分。そこに思わぬ落とし穴があったのだと思います。自分で創作した型と、型を真似ただけのものと両方あるときに、一方に気をとられ、もう一方に思わず落とし穴が生まれる。新たなものを創り出すとき、演者はその落とし穴を埋め尽くして演じなければならないものなのです。そして緋長袴の扱いの難しさ。早く動くときに袴の先が思うほどには動いてくれないこともわかりました。この教訓を今後の演能に生かしたいと思います。

「女体」は導入されて以来、金剛流の型付をベースにしながらも、さまざまな手が加えられてきました。後シテは緋長袴を採用することが多くなり、それまで喜多流に存在しなかった緋長袴を、各家で持つようにもなりました。しかし、まだ確固たる喜多流独自のものが確立されているわけではありません。友枝師の創作で方向は見え始めましたが、まだまだ工夫の余地はあるように思えます。手を加える事が許される曲だからこそ、今回のカケリのように自分なりの新しい試みが出来て面白く、心に残る体験ができたのだと思っています。

(平成十四年三月 記)

写真「殺生石」 粟谷明生 撮影 伊藤英孝

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