『石橋』の連獅子を舞う

今年の秋の粟谷能の会(平成13年10月14日)では三番目の舞台『石橋』連獅子を、シテ親獅子・粟谷能夫、ツレ子獅子・粟谷明生で勤めました。


私が子獅子を勤めるのは、これで7回目となります。最初は、『道成寺』披きの後、34歳のときで、シテの親獅子は父・菊生でした。そのあとの3回は友枝昭世氏と、その後2回は能夫と勤めまして、今回が7回目となります。
父と勤めた披きのときは半能(前場を省略する)で、ワキの名のりの後、いきなり後場の獅子舞から演じるものでした。舞は、当時一般的に行われていた新しい型。これは、先代の喜多実先生が香川靖嗣氏に連獅子を披かせるときに一緒に舞われるために、やや型を少なくして創られたものです。それ以来その型で演じることが多くなり、私も新しい型で披きました。友枝昭世氏とは、東京駅の駅コンでの公演をはじめに笛の中谷明氏の明音会、青森能での公演の3回。この明音会(平成4年)のときから友枝昭世氏が従来の型に戻そうということで、以後は喜多流本来の型に戻り、実先生が考案された省略型は演じられなくなりました。
能夫とはすでに2回勤めています。昨年の秋田の協和町まほろば唐松能では、私の不注意で胃の中にアニサキスという虫が入ってしまい、大変体調が悪く、無事勤めましたが、自分自身不本意に思っていました。そのとき能夫が、私をいたわるように「今度、連獅子のやり直しをしよう」と言ってくれて、今回は私にとって、そのやり直しの気持ちの舞台ということだったのです。
これまで私が勤めてきた子獅子は、父と勤めた披きの舞台からすべて後場だけ演じる半能でした。今回は、前場もある正式な能で勤めるという、能夫の強い思いがあり、70回記念の粟谷能の会で実現することとなりました。今回は仙人が三人も登場する替えアイの特別演出を野村与十郎氏にお願いしました。中入り後、シテが装束の準備をしている間
に、三人の仙人が酒を酌み交わし、石橋のありさまや獅子の登場を予感させる語りの場面は、一人で語る通常のアイより楽しめるものと、シテが依頼したものです。
前場ではクセが謡の重い習とされています。力を込め大きなスケールでまさに唸るようにと父は言います。居グセのため、シテはじっと動かず、地謡が謡う、幅は一尺もなく、長さは三丈、谷をのぞめば千丈あまりという石橋のすさまじさ、そして、石橋の向こうにある文殊菩薩の住む浄土の美しさに耳を傾けながら、心の中にて共に謡うという、静の能です。観る方にとっては、いつ獅子が出てくるのか、待ち遠しい思いで、じりじりとしてくるところでしょう。中入りした後も、仙人が長閑に謡いながら出てきますから、ここでも焦れて焦れて、まだなのかと獅子の登場を待ちます。この焦れがあるからこそ、後場の獅子の舞の豪快な動きに心踊らせるのではないでしょうか。

出の、激しい乱序の囃子で、半幕にて姿を見せる親獅子。幕が上がりどっしりとした運びで一の松にて石橋を見込み、さあ来いとばかり子獅子に合図を送ると、それを受けて子獅子は激しく軽やかに飛びはねシテについて舞台に入り、獅子舞の相舞となります。獅子とは文殊菩薩に仕える霊獣です。牡丹で飾られた2台の一畳台を所狭しと躍動し、飛び乗り飛び降り、息もつかせぬ動きで舞い遊びます。親獅子はゆっくり、ゆったりとしながらも力強い動き、子獅子は面も激しく振り、機敏に軽やかに子供のように飛びはね、すべてが敏捷に強く、そして子獅子らしくかわいらしさもあるというのが、父や先人たちからの心得として教えられてきました。前場と後場、鮮烈な静と動の対照。この対こそ能『石橋』の望ましい形であり真髄ではないでしょうか。
ツレの面は通常は子獅子口やシカミを使用します。私の披きのときは、銕仙会から「青鬼」という面を拝借しました。父は気持ちの悪い顔だと不満げでしたが、私は、青二才ならぬ、金泥に成長する前の段階として青い顔でもよいのではないかと思って、その恐ろしくパワフルな青鬼を使わせていただきました。拝借するときに観世暁夫氏は「我が家では青鬼は親獅子に使います」と仰っしゃられ、私自身も果たして赤頭に似合うか心配でしたが、つけてみるとよく似合い満足できました。後日『谷行』の鬼神役に梅若六郎氏が赤頭に青鬼をつけられたのを拝見し、おかしな選択ではなかったと安心したのを思い出します。

それ以後の公演は、粟谷家にある子獅子の面を使ってきました。この子獅子は残念ながらやや迫力に欠けるもので、私としては晴れの70回記念の粟谷能の会、能夫との『石橋』で、前回の不本意な舞台を一掃する気持ちも込めて勤めるとき、何か強い面をと思っていました。そんなとき、能夫より「実は良い獅子がある、ただ金泥なんだ。今回は披きではないからいいだろう…」と言われました。子獅子の顔は肉色(にくしき)といって、本来肌色で金泥は使わぬのが決まりなのです。親獅子は本家のお弟子所蔵の面を拝借し、久々の金泥獅子口の親子の再会となったわけです。
『石橋』は他流に比べ、喜多流では特に重い大曲とされています。それは獅子を重く大事に扱うということと共に、喜多流独特の赤い巻毛をつけた一人獅子が特別に重い扱いになっている所以だと思います。しかし、私は獅子に勿体をつけて、なかなか演じられない現状は不健全だとかねがね思っていました。連獅子のツレは20代の身体がきれる時期にやるべきです。ただ動きが活発なだけ、まるで運動会のようだ、能の演技とはいえないなどと言われても構わず、まず披きで一度猛烈に動くという体験をして、その経験を次につなげ、30代、40代と年齢を重ねながら、動きの妙味を覚えて円熟していき、子獅子を完成させていけばよいのです。そうしてゆくことで次の段階、目標の親獅子というものが見えくるのだと思います。そして、親獅子も同じように早め早めにと挑み、白い親獅子を作り上げていくべきと思うのです。そのためにも若い人たちに、早く挑んでほしいのです。私たちの諸先輩はみな、20代、24、25歳でお披きをしています。私が子獅子を披いたのが34歳ですから、これさえ遅いぐらいだったのです。

 今回はとりわけ、二人で頑張って九段の舞(通常『石橋』は八段、『望月』は七段)でやろうと決め勤めました。激しい動きの子獅子を、歯切れよく舞いながらも、一回転半の飛び廻りに恐怖感を抱くようになりました。私も40代半ばを過ぎ、そろそろ自分の髪の毛に白いものも混じってまいりました。それにふさわしく次の目標、白獅子にシフトしていきたいと思います。
「早く来たれよ、若き獅子たち」と、思うこのごろです。

(平成13年10月 記)

石橋 披き 粟谷明生   撮影 あびこ写真
石橋 青森公演 友枝昭世 粟谷明生撮影 撮影 不明
石橋 まほろば公演 粟谷能夫 粟谷明生 撮影 東條 睦
面 獅子口 粟谷家蔵 撮影 粟谷明生
石橋 ツレ 粟谷明生 撮影 伊藤 英孝

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