『経政』「烏手」を演じて

3月の粟谷能の会は、粟谷新太郎三回忌追善能という事で、私は初番に『経政』「烏手」(からすで)を勤めました。

『経政』は、所演時間45分程の小品であるため、少年の初シテや素人弟子の初能に選ばれたり、曲目編成で重い曲が重なるときに、そのバランスをとるために配されたりすることがあり、今回もその例にもれず、能夫の大曲『三輪』、父菊生の『鞍馬天狗』「白頭」へと続くことから、初番は軽く、追善能にふさわしい曲ということで選びました。


『経政』は小品とはいいながら、詩情豊かで香り高い曲趣の中に、適度な緩急があり、舞っていても楽しく面白い作品です。修羅能ですが戦闘場面はなく、わずかに修羅の苦患を表現するのみで、全体としては琵琶の妙音に導かれながら、芸術魂をふるわすような趣向で、修羅能としては他にあまり類のない曲です。

平経政(観世流は経正)は、平清盛の弟、経盛の長男で、幼少のころより仁和寺の稚児として、鳥羽院第五皇子の覚性法親王と次の代の後白河院第四皇子の守覚法親王などに仕え、寵愛を受けていました。そのころより琵琶の名手と言われ、帝より琵琶の銘器青山(せいざん)を預け置かれるほどでした。それが都落ちの際、自らの運命を見定めた経政は、大切な琵琶を返上しに守覚法親王の許を訪ねます。そのときの様子は平家物語にくわしく語られていますが、親王と経政がかわす和歌や、仁和寺の僧・行慶(能ではワキ)とかわした和歌に、切々たる惜別の情があふれ、貴公子経政の人となりが感じさせられます。

能『経政』は平家物語とは場面をガラリと変え、物語は一の谷の合戦で果てた経政の霊を弔おうと、仁和寺で青山を出して管絃講(音楽による弔い)を催そうというところから始まります。

執り行うのは、和歌をかわして別れを惜しんだ僧・行慶。一般の能では一見の旅の僧が幽霊に出会い、回向を頼まれて弔うというものですが、ここではシテとワキが生前の親しい関係という形になっています。消え消えに、有るか無きかの様子で恥じ入りながら現れたシテ経政と、それを受け止めるワキ行慶。やがて夜更けて、花鳥風月、詩歌管絃を楽しんだころを懐かしみ、琵琶をかき鳴らして、夜遊の舞を披露します。突然、修羅の苦患に襲われますが、修羅道に落ちた自分の姿を人には見られたくない、恥ずかしいと言って「燈火を消し給え」と訴えます。最後は経政自ら燈火を吹き消し、修羅のまま消えていくのですから、成仏というより、暗闇の中に芸術を愛した自らの美意識 をひた隠しにする貴公子像を表現しているようです。

経政が琵琶の名手なら、弟の敦盛は笛の名手、父経盛も琵琶をよくし、経政の家はまさに音楽ファミリーでした。戦乱の時代の音楽家は美しくも悲劇的であったことは容易に想像できます。

能『経政』は、詩歌管絃に親しんでいた幼少のころの楽しさ、優雅さ、そして修羅の苦患を恥じらう繊細さを緩急つけて表現し、さわやかな小品として仕上げなければならないと思います。

『経政』は少年の演能によく選ばれると述べましたが、私自身も10代で初演して、近年2度ほど勤めました。今回勤めるに当たり、小書「烏手」というものに携わりたく取り組むことにしました。

「烏手」は喜多流と笛の森田流の間でしかない小書で、管絃講に惹かれ登場するシテが特に琵琶の音色に聞き入るという演出です。「烏手」は琵琶の演奏方法の一つだそうで、琵琶の音を笛に託すということです。もちろん笛の音が琵琶の音に聞こえるわけではありませんが、一曲の能の中で一管の音色の面白さを楽しむという稀な演出で笛方の重い習の演出方法だといえます。過去の記録では祖父粟谷益二郎が大正7年に演じているようです。

シテは琵琶の音(実際には笛の音色)を舞台にて下居て聞く型を演じ、独奏が終わると「あら面白の琵琶の音や」と心持ちを大事に謡います。シテは、管絃講の数ある楽器の中から、自分が親しんでいた、最も執心のある琵琶の音を聞き分け、右から聞こえてくるのか左からかと探っている風情の動きをします。

観世流は、この「あら面白の琵琶の音や」という詞章がなく、いきなり「風枯木を吹けば・・」と謡います。「あら面白の・・」の詞章がないことが、他の流派に笛の音を楽しむ「烏手」の小書がないゆえんなのでしょう。喜多流の「烏手」では「風枯木を・・」から「妄執の縁こそはかなけれ」までを省略し、笛の音に耳を傾ける型に思いを込め一つの見せ場としています。

能の世界では『絃上』や『蝉丸』など、琵琶の音を笛一管で奏で、そのイメージを表現するという手法があります。「烏手」「音取」のような小書では、笛がいかにその演出意図に合った演奏をするかがカギになり、同時にその吹き手の独奏自体を味わう事も大きな要素となります。

半年前、松田弘之さんが師である田中一次先生の「烏手」のテープを持ってこられ、「このように吹ければ…」といわれ、私に聞かせてくれました。その「烏手」は、すばらしく特にその音色に魅了され感動しました。松田さんとは、私の動きと吹き込むタイミングを繰り返し申合せしながらも、最後はお互いにあまり気にせず自己表現しあおうと決め舞台に臨みました。そして彼の力演で、「烏手」という今まであまり見向きもされなかった喜多流にしかないこの小書きが、あらたに息を吹き返したように思えたのは私だけではなかったと思います。

「烏手」になると常は「十六」と決まっている面を「中将」に替え、年齢も位も少し上がることになります。経政が一の谷の合戦で亡くなったのは二十歳か二十一歳ですから中将にすると死んだ時のお姿ということになるでしょう。しかし能『経政』に登場する経政は、仁和寺で詩歌管絃に親しんでいた平和で幸せな時期でのお話です。

我が家の伝書にも「中将」と記されているのですが、私はどうしても曲の文意から「十六」からあまり離れたくない思いがあります。例えば梅若六郎家が所有されている、「十六中将」のような両者の中間にあるような面はないかと思っていましたところ、面打ち師石原良子氏とのお話の折り、「十六」と「中将」の間にあるという面を拝見し、今回は敢えて「中将」に拘らず拝借することにしました。

装束は伝書には白地厚板唐織、紫長絹それに萌黄大口袴と華やかなものに定められているようですが、残念ながら我が家ではなかなかそこまで揃いません。そこで観世暁夫さんにお願いし、銕仙会から拝借することができたことは嬉しく、暁夫さんには感謝しています。昨年銕仙会の夏の虫干の場に伺って装束を拝見させていただいたときに、紋大口袴がずらりと並んである中に紫と萌黄の紋大口袴が目にとまり、気に入ってしまいました。

是非『経政』「烏手」の時に拝借したいと、烏手や我が家の装束の内情などの話をして拝借させていただくことになりました。拝借に伺うときまで、萌黄色か紫色かで迷っていると、「うちの父はこの組合わせで清経の音取をいたしました」と、紫大口袴と白地の銕仙の花模様の厚板唐織、花色の長絹を見せてくださいました。もうその一言ですんなり決まりました。何しろ観世銕之亟先生と同じ扮装がつけられる事はこの上ない幸せですから。

今回も他流の人とお話をさせていただくことで、いろいろな面で得ることが多く、自分自身の意識を高めることにもなり、大変貴重な経験が出来たと思っています。喜多流の特徴を基盤にしながらも、決してその殻に閉じこもることなく、より広く、深い意識を持続したいと考えています。


『経政』の詞章の中に「情(こころ)声に発す、声文(あや)を成す事も」という言葉があります。喜多流の謡に関する伝書に、九代目七太夫・古能・健忘斉が書いた「悪魔払」という本があります。ここにも「情声に発す、声文に成す事」という一文があり、声に文があるように心がけて謡えと教えています。しかし未熟者がいたずらに文をつけると、文が嫌味に聞こえてよくないとも書かれています。「文を成す」という短い言葉の中の深い意味。この一文はいつも私自身の課題を指摘してくれるように思えるのです。

今回も、内向した中でどれほど外への訴え掛けが出来るか、その具合、程度の微妙と声そのものの質、張り、位と悩む中でこの言葉が浮かんできました。ただ謡らしき声を出し、節さえ正しく謡えば良いというにとどまらず、真実味のある演劇として、訴え掛けの強い謡を保つのはやはり難しいことです。自分の謡をもっとレベルアップしていきたいとあれこれ悩むときに、この言葉が脳裏をよぎります。
小品といわれるこの曲も、掘り出せば、まだまだ掘り尽くせないものがあります。それが古典としての存在する所以でしょう。

今回「烏手」を通して、いくらか掘り進んだとは思うものの、能の奥深さ、無尽蔵な宝の山は、掘れども掘れども、なかなかその正体を明かしてくれません。だからこそ掘り甲斐があるのだと思うのです。

(平成13年3月 記)

写真撮影 経政  東條 睦

石原良子打 創作面・仁和寺本堂 粟谷明生

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