『黒塚』の鬼女をどう表現するか


 叔父・粟谷幸雄の「幸扇会」四十周年を記念する会(9月16日)で、『黒塚』を、私が前シテ、父が後シテで勤めました。

能は約束された型である動きや謡の調子、ノリそして面、装束など一見がんじがらめの規制に身動きできないようで実は、曲のありようを様々に解釈できる余裕、あそび、自由さがあり、この懐の大きさが能を現在まで継続させてきたと言っても過言ではないのです。演者は人技体の伝承と同時に、演じるという意識を常に持ちながら、能のあそびの部分の演出を追求すべきです。私が古典というやや古臭く感じるかもしれない能の世界の中に居ながら、一生の仕事として面白く取り組んでいけるのもこの自由さとシテが演者であり演出家でもあるという魅力のおかげなのです。

『黒塚』を演じるとき前シテの里女をどのように演じればよいか。「孤独で寂しい無力な女」という人間性を強調するか、それとも「身体の中の本性をいつ現すとも知れぬ鬼の心を隠し続けている女」とみるか。さてどのように意識すべきか、迷うところです。

『黒塚』は、陸奥の安達ケ原(福島県二本松市、安達太良山の東山麓一帯)に伝わる岩手(いわで)の鬼婆の伝説が基本になっていると言われています。この伝説は、京都の公卿屋敷の乳母・岩手が、姫の病を治すためには妊婦の生肝を飲ませればよいという易者の言葉を信じて、陸奥にこもり、宿を借りようとした若夫婦の妊婦の腹を切り裂いて肝をとり出したところ、その妊婦が実は生き別れとなっていた実の娘だとわかり、狂乱し、鬼と化してしまう、それ以来、岩手は宿を求める旅人を食らう「安達ケ原の鬼婆」となったという伝説です。これが平安前期の歌人・平兼盛の「みちのくの 安達が原の黒塚に 鬼こもれりと いふはまことか」と歌われ伝説ではないかということです。

 

JR東北本線の二本松駅から2キロほど、阿武隈川のほとりには岩手を葬ったといわれる黒塚があります。黒塚近くの天台宗観世寺の境内には、鬼女が住んでいたといわれる岩屋があって、縁起には閨(ねや・寝室)を覗くなという禁忌を破ったために鬼の正体がわかり、阿闍梨祐慶東光坊の法力で鬼婆が殺される話が伝えられています。

能『黒塚』は、岩手が鬼になった生々しい伝説の中身とはほとんど重ならない作りで、観世寺の縁起の内容に近いものになっています。敢えて凄惨な伝説にふれなかったことから察して、能の『黒塚』の女は、おどろおどろしい鬼というよりも、人間の罪障によって鬼にならざるを得なかった女が、その運命から逃れられず、寂しく一人暮らしをしていると見た方が良いような気がします。 

以前、観世銕之亟先生に黒塚の女についてお尋ねしたところ、先生は能の『黒塚』(観世流は『安達原』)は「最初から鬼を考えるのではなく、あくまでも孤独で寂しい女の性(さが)や不安が最後に鬼にならざるを得なかったというストーリーのほうが良いし、あのロンギの糸繰り歌にも合っているね」、とおっしゃいました。「ロンギ」で糸車をまわしながら、源氏物語夕顔の巻を絡めた労働歌謡を謡う当たりは、都で裕福に幸せに暮らしていた人が、何か特別な事情で鄙の地に来て一人寂しく暮らすというあの岩手の物語りにも繋がるようでもありますが、代々語り嗣がれているその土地の労働歌の情緒を感じさせる意図とも捉えられます。

糸繰りは昔から女性の仕事で、女性の体の月のリズムと蚕の変態のリズムを同一視する説があると聞きます。
『黒塚』の女も糸車を廻しながら、月ごとにめぐる命と、輪廻する永遠の命を紡ぎ、寂しさに耐えているように見えます。そして孤独や悲しさ、罪障によって人は鬼に変わっていくのです。それは決して超能力を持った物の怪だからではなく、人の心が鬼と化すととらえるのでしょう。 



シテは引き回し(作り物を包んでいる幕)が下りると、その姿を静かに現し「げに侘人の習い程、悲しきものはよも有らじ。かかる憂き世に秋の来て、朝げの風は身にしめども、胸を休むる事も無く、昨日も空しく暮れぬれば、まどろむ夜半ぞ涙なる。あら定めなの生涯やな」と、寂しく謡います。
この曲の位を創る大事な謡い所です。

これを謡う女は、人を食わざるをえなかった環境、もうこのようにしか生きられない罪深い境涯に苦しみ、罪障に心が休まるときがなく、絶望し、静かに死を待ってるようでもあり、また、この境涯から救われたい、改心したいと宗教者(僧侶や修験者)をひたむきに待っているとも思えます。それが、鬼の正体をあばかれ、救われるどころか自らが拠り所にしていた法力で逆に退治されるという悲しい結末になってしまうのです。

お能ができた室町時代は、飢餓や戦さがあり、平穏無事の時代ではなく、死者を身近にみることが多かったようです。山中には屍が放置され、どくろが風雨にさらされている光景もそう珍しくなかったかもしれません。最も犯してはいけない、人が人の肉を食らうことがなされていたかもしれない、そういう時代背景で死や人間の生き方をとらえて、『黒塚』という作品が生まれてきたのではないでしょうか。

能では里女が住む庵を四角い木の枠の塚の作り物で表現しますが、そういう実体のあるものでなく、夢、幻とみる人もいます。安達原の原からは荒涼とした原に累々と続くどくろの群れ、黒塚の塚からはこんもり盛土された墓を想像することもできます。その時代の死者を思い、罪障深い人間の生を思うとき、ただすさまじき鬼の話だけではない、捉え方が大事な事と思えるのです。

私は『黒塚』の鬼女をこのように捉えて演じていますが、解釈の仕方によって、前場の里女の演出に違いが生じます。

中入り前、寒いので薪を焚いてあげようと言って、女が薪を取りに行こうとする場面。自分がいないときに「閨の中を見ないように」と念を押しながら、最後、橋掛りでじっくりと山を見上げる型をしてカッカッと大股の足運びで幕の中に入るところがあります。そこではすでに鬼になっているのだ、だから強い「切る足」で鬼のすさまじさを内包した足づかいをするのだという考え方をする人もいます。私は、その時点ではまだ鬼になっていないのではないか、強い足づかいは、薪を取りに山に入るのだから、着物の裾を上げて、力を込めて登っていく風情なのだと思います。

しかしここに悲しいかな鬼の本性が見えてしまうのだと解釈すれば、鬼の切る足でも成立するわけですが、私は鬼になる時点は、おそらく、閨の内が暴かれた瞬間(あるいは、その様を目の当たりにした瞬間)ではないか、従って、橋掛りから幕に入るまでは里女の心持ちのままで演ずる方がよいのではと考えています。



後半の鬼女の扮装の演出もいろいろあります。一般には赤頭で顰(しかみ)という鬼の形相をした面をつけ、法被半切の荒々しい装束で、柴をしょって(負柴)で登場します。これは鬼畜、怪物を前面に出した演出といえるでしょう。替装束の時は黒頭となります。

今回父は白頭で演じました。白頭は当然髪が白くなり、面は般若になります。般若の方が鬼畜というより女の恨みが角に現れ、女の業をより強く表現します。柴の持ち方も負柴ではなく抱柴です。自分が着ていた着物を柴に巻いて抱いて約束の証として出てくるのです。これも鬼畜というより、より人間的な、ある種、女のやさしさが出ているように思います。ですから、白頭という演出は、すさまじい鬼というよりは、鬼にならざるを得なかった人間、人間らしいやさしさを内に持った鬼を演ずるのに合っていると思います。 

ところで、「閨の内を見るな」という禁忌を破る話は、日本だけでなく世界にもさまざまあります。見るなと言われれば言われるほど見たくなる人間の性、それによって劇的に迎える結末、それらが物語をドラマチックにしたてています。禁忌を破る場面はいつの場合もハラハラ、ドキドキさせられます。

能『黒塚』では、ここをアイ狂言が滑稽に、コミカルに見せてくれます。私が若い10代で、人間国宝の野村萬先生が万之丞と名乗っておられた頃、このアイをやられて、とてもあったかで人間的なものを感じたことを今でも鮮明に覚えています。その名演技に、地謡の前列で笑いを堪えられず思わず下を向いてしまったことを思い出します。「見るなと言われれば見たくなるのが倅のころからの癖」の語り口、閨の内に行こうとして咎められ言い訳をする言葉のあややタイミング、体の動かし方が絶品で、何ともいえぬ味わいです。

『黒塚』という曲は実は、私が能の魅力に目覚めた出逢いの曲です。初めて『黒塚』を演じた27歳のとき。それまで私は心が定まらず、お能に興味が持てずにいました。あの手この手と、私を能の方に引き寄せようとしていた能夫が、『黒塚』のときに一つの話をしてくれました。『「月もさし入る」っていうところ、普通は枠かせ輪(糸車)に手をかけ、常はただ右手で糸車を持つだけだが、まあ替えの型で月を見るように上を見る型をやる人もいるけれど、そこを観世寿夫という人は「月もさし入る」と言って右下の閨の内に射し込む月の光をじっと見たんだ。こんな発想喜多流にはないだろう。』と。

この言葉は衝撃でした。月といえば上、海といえば下を見ると決まっている、お能はそういう決まりごとを伝承していくだけで、創造性のないものだと思っていた私の心を大きく揺るがし、今までの私のお能のイメージを一掃させ、新たに能という演劇世界のイメージを脹らませてくれたのです。流儀内の決められたものとは違う世界がある、これは何て面白いのだろうと・・・・。

 そして、能夫はそのとき、装束や面を自分自身で選べ、着たいものはすべて出すからと言ってくれました。自分の責任で演出し、デザインしろと言ってくれたわけです。

今、当時の写真を見ると、装束の色彩のバランスは悪く、よくあれを着て出たなと思うのですが、能夫はおかしいから替えろとは言わずに、選んだもののよし悪しより、自分で選び見立てる作業の方を優先してくれました。そして、粟谷の家にはいくつもの装束や面があり、自分はそれらを自由に選べる恵まれた環境にあることや、それを集めた祖父や叔父たちの蓄積をその時身にしみてわかったのです。今もあの時が私の演能の始まりだと思っています。

この能にこめられたものは何か、どう演出したらよいかを考えるようになりました。それが能を伝承する者の勤めでもあり、また生き甲斐になるのです。

『黒塚』は自ら創造的に役づくり、舞台づくりをしようとした最初の曲でした。少しずつではありますが、演ずるたびに積み上げられていくものが実感できるようになりました。様々なものを見聞きし、考え、研究し、取り込み作業をするなかで「げに侘人の習い程、悲しきものはよも有らじ」が見る人の心に届くように謡え、全体を通して黒塚の女の心が表現出来たらと、望みは果てしなく高いのです。

(平成12年9月 記)


写真

1 前シテ 粟谷明生 撮影 堤 恒子

2 前シテ 粟谷明生 撮影 三上文規

3 曲見       撮影 粟谷明生

4 後シテ 粟谷明生 撮影 三上文規

5 般若       撮影 粟谷明生

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